また全然そんなこと

ちょっと、いや、かなりボケボケの内容になってきた。
訴求ポイントが定まらない。
電車内で、乗ったり降りたり、行ったり来たり、気の向くままに書くとこうなる荃灣牙醫
移動せずに椅子にずっと座って書くと、もっと落ち着いた良いものが書けるかというと決してそんなことはない。 
かといって、人の出入りが激しいガチャガチャした環境で書いたら濃度が高いものが書けるかというと、これまた全然そんなことはない。
勉強と同じだ。
わたしは勉強が出来ない劣等生だったので、劣等生の気持ちは良くわかる。
というか、優等生の気持ちは全くわからない。
ただ、自分の力が及ばないとわかったら、あっさり諦めて代替えで補てんする。
純正でなくてもよい。少し劣っていてもよい。
ゼロよりは良い。
あちこちの力を集めてきて、自分の出来ないことを成し遂げようとする。
自分自身、本人がしなければならないことはなく、こだわらない。
代わりの人、ものでもよいと考える。
それに、、、事態は変わる。
良いことも悪いことも、いつまでも同じ状態ではない。
無常。

1番でなくても良い。
2番でも良い。代案オッケー。
1番でなければ気が済まない人もいるけれど、それはそれ。
人それぞれ活動假牙
自分が良い道を選べばよい。

だが、一つ、難点がある。
つい最近、ある人に言われた。
わたしはサボりだと。
もっとやれば、もっと出来るのに、やらない。
現状で満足してしまう。
言い得て妙、その人は、ぴたっと、わたしそのものを言い当てた。
わたしの人生そのもの。
努力しなくてもそこそこ備わっているため、努力しない。
自分を磨かない。
わたしは、まさにそれなのだ。
亀に抜かれるウサギではあるが、そもそもウサギではない。
白鳥かも知れないのに、アヒルの中にいるほうがずっと快適。
かといって、ある日、突然、白鳥にはなれない。
努力を放棄しているので、元白鳥で、ちょっと大きいアヒルだ。
ヒルでも白鳥でもない、化け物かも知れない。
ヒルの着ぐるみを着た白鳥?
ヒルの着ぐるみを着た白鳥だと思っているアヒル
白鳥の着ぐるみは元々着ていない聽力問題
ヒル群に属する。
だが、アヒルの中では部外者、白鳥の中でも部外者。
アイデンティティは、アヒルでも白鳥でもなく、行ったり来たり彷徨い、バランスをとりながら二本線で歩んで行く。
逆に言うと、アヒルでもあり白鳥でもある。両方。
なので、両極端で真ん中がない。
振り子のようだ。


ジキルとハイドもそんな感じなんじゃなかろうか。
人を一面的に見ても、片手落ちだ。
表裏一体、短所は長所、光の当たり方で良くも悪くも見える。
これは特別でもなんでもなく、ごく普通によくあることで、皆さんの一般的な日常だと思う。
自覚しているか、していないか、だだそれだけの違いかと考える。
そんな自分が好きか嫌いか、にもよる。
嫌いな場合、認めたくない、認めない。
複雑に何面も何層もあるのが、人間。
そんなめんどくさいことは大嫌いだと無視する人もいる。
それはそれでよい。
色々だ。

の重さをとりあえず横

今日は強力寒波到来のため、電車が運休。
で、趣味の練習に出かけられなかった。
その代わり、家でいつもはお尻が重くてやる気が出ないため、出来ないことをした。
それは、探し物轉奶粉 敏感
(実は必要に迫られ、お尻に火が付いているのだけど)

クロゼットの中から探した。
クロゼットがモノが多すぎて、2段棚の下を探すと、しゃがむのが疲れる。
今回の探し物ではない別のモノは容易に出てきた。が、それはそれ。
で、クロゼットではない場所に置いているかも知れないと、息子の元部屋や、娘の元部屋をあっさり探した。
あるわけないだろうけれど、あったら儲けもの、クロゼットで真面目に真摯に向かい合わなければならない気の重さをとりあえず横に置いて、あわよくば感を漂わせながら軽薄なかんじで探した。
なので、やはり見つからなかった。
最初から期待薄で諦めていたし。
気合いを充満させるための時間稼ぎ、ウォーミングアップ。
宿題をする前に、勉強机の掃除をするタイプ。

わたしのセンサー、嗅覚麻薬犬の鼻は、クロゼットの奥の棚の下に行くと反応して最大にアラームが鳴る。
くんくんくん、におう、におう。ここに違いない。
だが、モノを退けないと取り出せないBB轉奶粉
瓦礫に埋もれた人物を救済するかのごとく。

はじめは、前に積まれていたモノを身体が入る隙間を作るために数十センチ、一つ一つ移動させていた。
が、ラチがあかない。
で、大きめダンボール箱ダンボール置き場から出してきて、邪魔をしていた昔の衣類(ズボン)を箱に入れた。
これで少しはマシか。
というか、ダンボール箱を出す前後時あたりに、探し物の顔が少し見えた。
やったー。
あとは無事に引っ張り出して、ついでに周辺も少し整理する。
といっても、大まかに乱雑にガサっガサっと、積まれた日記や家計簿類を小ぶりの箱に放り込む。
もう要らない、捨てても良いものだ。
いや、むしろ捨てるべき。
いや、捨てなければならない。
そのうちの一冊、15年ぐらい前の大きなサイズの日記を見た。
細かく毎日の行動を記録していたが、数ページ見て、パタンと閉めた。
とても見られない。???焼却した方が良い冰箱品牌推薦
いつか、ドラム缶か、五右衛門風呂の炊き口に入れて焚べよう。
(無いなあ、そんなドラマチックな大モノ)
日記には表紙がプラスチックのものもあるので、焼くと嫌な臭いがするだろう。
しかし、焼かずにどうやってあんな硬い表紙のものを断裁する?
なんだか憂鬱になってきた。
ひとまとめにして、燃えるゴミの日に出すか、少しずつゴミの中に混ぜて出すか、だ。
バーベキュー用のコンロ?で燃やすのも良いかも?

条書きにする気がし

何故、ワクワクを箇条書きにする気がしないのか。
過去にワクワクしても、今はワクワクしない。
過去に燃焼したと思われる。
もし燃焼できず、燻り続けているなら、その続きをすればよい。
続けられない理由があったなら、今も尚あるなら、執着せず断念するほうが幸せへの近道。
道を変更す牙醫價錢る。

もうワクワクする情熱が枯渇しているなら、仏門にでも入るとよい。
ただし、人に強制的に教義を押し付けることなく、静かに自分だけが実践するとよい。
価値観の押し付けほど、圧苦しくウザイものはない。
自分のこれから行く道への架け橋にもなるだろう。
こころは落ち着く。
ヒマも潰れる。
有り余るヒマは、黙想で潰すとよい?
黙想の定義を取り間違えている感があるが、自分で自分を幸せに導くならそれでもよい。
瞑想?迷想?迷走?

姑は、読経しながら、最後あたりは晩御飯のおかずを考えていたという。
ミックスナッツ、なんだってよいのだ。

お経を読むのは実に省エネである。
覚えていれば、経本も紙もペンもスマホも電力も照明も、何にも要らない。
できれば暑くも寒くも無い、快適な気温が望ましい。
声がでなくなれば、こころで唱えるのもよい子宮檢查

しかし、それをするには、お経、覚えなければならない。
ちなみに、夫も舅も仏教行事を行うのに、お経を知らない。
お坊さんやお墓に大金を投じても、お経を自分で唱えない。知らないから仕方ない?
頭脳明晰な2人、覚えられないはずがない。
その気がない。
自分の仕事ではないと思っている?
分業システム?
代行、アウトソーシング
こころの中で唱えているようにも思えない。
本人がそれでよければ何の問題もない。
食事作りをはじめとする家事を絶対しないのと同じ脳構造だと思う。
家にまつわることは、女性がするものだと思っている。決めつけている。
(舅は、掃除や整理整頓、片付け、庭掃除、DIYがらみ、冠婚葬祭の管理もしていたが。
助かるのではあるが、片付けや食事準備を急かされたり、やろうとしていることに口出しされたりするデメリットがある)
家庭の中できちんと分業されていた。
もちろん経済も握っていた。
舅亡き後は、経済面では厳しい舅に変わって甘い息子にバトンタッチされ、姑はこの世の春を謳歌していた生髪療程

とを書き出してみよう

読んでいた本をやっと完読した。
わたしは読書も遅い、のろのろだ。
で、その中で、最後あたりに著者が言いたかったこと皮秒激光邊間好

自分の生き方について。
やりたいことが出来る、毎日サンデーの特権を手に入れたなら、、、
膨大な時間を持て余すのはあまりにももったいない。
やりたいことをやるにも何をやるか定まらない場合は、、、
脳を萎縮させないためにも、子供心に戻って自分がかつてワクワクしたことを書き出してみよう、とのこと。

で、ふと思った。
子供の頃、ワクワクしたことなんかあったかな、と。
秘密基地だの虫取りだの、電車が大好き!だとか、別に無い755 脫毛
うんと小さい時は、あったかも知れない。
強いて言えば、お花畑だとか、お花でおままごとだとか。
が、、、。
おかあさんごっこのお花を使ってお料理遊びなんか、実際に大人になったら食事作りは苦行。
ワクワクなんて程遠い。
ボルテージの低い、低温の可愛げのない子供だったようだ。

青春時代にワクワクしたことは、青春時代だからこそのスイタホレタ恋愛もどきだし。
女性的若さも情熱もエネルギーも魅力もなくなった今となれば、ないモノねだり。
(あくまでもピーク過去との比較)
渇望すればするほど満足や幸せから遠のく。
諦観あるのみ。
輝きのピークに子供を産み育て、今は空の巣症候群か?というわけでもない。
そんなに頑張らなかった。
毎日、生活に追われていただけだ。

時間がたっぷり出来たら、何がしたかったんだろう?
こじんまり日常の生活で満足を得ている今としては、別にやりたいことを箇条書きにするようなことはない。
マチュピチュにもあまり行きたくなくなった。(先日の現地ストで)

知人を見る限り、あんまり、あまりある時間を謳歌している人はいない。
時間がない時からそうだったが。
皆さん、何をするでもない、(わたしにとっては)じつにつまらない生活を送っている。
わたしは、限られた特殊な趣味の面だけで接しているため、その人のその他の面は面白いと感じない瘦面方法
(例外もある)

ていたのをよく覚えて

今日は認知症進行速度を緩める効力と、たんに自分が楽しいだけの、お読みになっても毒にも薬にもならない、つまらない内容です助聽器邊隻好

と、最初に前書きすると、迎合やら、ウケやら、感想やら、評価やら、気にせず気楽に書ける。
可愛いげがない。

で。
今日の文字、無駄遣いは、「思い出」。
高齢者にありがちな、「昔は良かった、、、自分は偉かった」
あるいは、「昔は大変だった。それに比べて、今の人は、どーこーあーこー」
に、今日はならない予定。あくまでも、予定であるが。

誰も知らない、無名中の無名人である、超個人的肉親の人物の思い出を辿る。
(蝶ブログには最低一度は綴っている)

父方の祖父。
わたしが3歳半で他界。(享年72歳)
記憶に残るのは優しい祖父。
廊下を渡る離れで、晩年は脳卒中で伏していた。
祖母が自宅で介護、看護。
祖父の部屋に行くと、袋物のお菓子を出してくれた。
後遺症のため手が不自由なので、脇に袋を挟んで、口に咥えて(歯で?)袋の端から開封していたのをよく覚えている。
あとは、井戸前、蔵前の、家屋の壁に面して木製の120センチ?(150センチ?)ぐらいの大工道具入れ家具が置いてある土間スペースに立って、夜のおかずになるニワトリをぶら下げている姿をうっすら記憶している三門雪櫃推介2021
のだが、、、わたしが3歳半で亡くなり、それまでは病気だとすると、伏している期間は短く、病気発症はわりと遅かったのか?
でなければ、昼間、作業している祖父がわたしの記憶にあるとすると、0?2歳で覚えていることになり、わたしは天才級に記憶力が良いことになる。
そんなはずはないので、ニワトリ男性は別の人である可能性がある。
父はあまりそういう作業には関わらないので、その人物は父ではないとたぶん思うのだが、、、
ひょっとすると、母の兄(伯父)とか?
今となれば、確認のしようがない。
祖父の思い出は、お菓子と、お葬式当日だけ。
大人たちが大勢集まり、当時5歳半の姉と、いつもとは違う雰囲気に、はしゃいでいた。
姉が祖父の顔にかかっていた白い布をちらりとめくったりして、こっそりイタズラして遊んだ。
3歳半でも、記憶というものは強い。
心理学的には、幼い頃、災害や事故に遭うとトラウマになることだろう。
その3歳半を最後に、それ以前の幼い頃の記憶は祖父に関してお菓子以外にはあまりない。
子供は、日頃貰えない、既製品の市販のお菓子が印象に残っているのだと思う。
兄や姉はわたしより歳が上なので、もう少し祖父のことを覚えているだろうけれど、わたしはお粗末な記憶しかない。
そう言えば、お葬式に遠方から来て参列した親戚の子供たち、兄弟(小学校低学年?)二人で大げんかをしていた。
それがお葬式の時なのか、法要の時なのか定かではないが。
二人とも、その後もよく知る人物だ雪櫃唔凍
わたしより弟は5歳ぐらい上、兄は7?(8?)歳ぐらい上。
団塊の世代である。

そういうことにな

若い学生さんに囲まれた電車内。
皆さん、わたしの子供より、孫に近い年齢。
わあ、わたし、みんなのおばあちゃん世代醫管局轉介信。 

乗った電車が通勤、通学時間なもので、そういうことになる。
家を出て駅に向かうバスに乗った時から場違い感ありあり。
日頃の活動時間、活動場所、棲息場所が違う。

満員電車内ではリュックを背中から前に掛け替えて、場違い感は更に際立つ。
いいの、いいの、行き先も目的も違うからPet CT scan

出かける前にリュックを持ってみると、やたら重くなったため、荷物を減らした。
だが、肝心の、昨日から凍らしておいた水入りペットボトルを入れるのを忘れ、玄関を出たところで思い出し、ホームセキュリティを掛け直した。

大丈夫かなあ?
もしもの時の、緊急おばあさんグッズ(下着だの衛生用品だのなんだのかんだの)を優先順序から漏れてリュックから取り出して置いてきたので、若干気になる。
体調管理は重要。
健康に心配がない今しか行けないと実感する。
遠方の、長?い、ウォーキングの会。
たぶん、わたしが一番の若手だと想像する。

おっと、降りる駅を間違えないようにしないと。
ブログ更新は、ほどほどに脫毛 機

では、行ってきま?す!

簡単に伝統行事をパ

何度目になるだろう。
お盆の仏さんたちへのお給仕(お供え)、伝統メニューがある。
お迎え団子から始まって三食おやつ付き甲狀腺抽針
御膳、器、全て、江戸時代のからの朱塗り(漆塗り)もので、決まっている。
のではあるが、、、
プツンと糸が切れたように、伝統メニューを2018年を最後に、それから用意していない。
2019年は定められた器は使ったものの、メニューは手抜き。
2021年は初盆で大変だった。
振り回されていた時代、時期がウソのよう。
こんなに、いとも簡単に伝統行事をパタンと中断してしまってもよいのだろうか。

今は、、、よい、、、と思っている。
また復活する日も来るかも知れない。
司令塔は、わたし。総指揮官は、わたし。
誰も口出しする人も、文句を言う人もいない。
ある日、頂点、トップの座に躍り出た。
なんの策も練らず、たんなるトコロテン方式。
なんと気持ちの良いことか。
見える景色は周りには何もない。
高い聳え立つ山の頂上に立ち、見えるのは雲か霞。
残念ながら、人の姿はないivf 成功率
モンゴルの偉いお坊さんになったような気分。
権力闘争や跡目争いもない。
誰もこんなポジション、望まないし、人気もないし、実効性や実用性もないし、権力そのものもない。
美味しいウマミはゼロ。
こんな魅力のないポジションはない。
が、眼の上のタンコブがない、素晴らしい絶景。
この絶景に、山から落っこちても、誰にも影響はないだろう。
ただし、援助隊、救助隊も気づかない。

ババ抜き(トランプのゲーム)のババ、今度は誰が持つ?
ハンカチ落としのハンカチ、誰の後ろに落とされる?

こんな思いで、長年わたしがいたことを誰が知っているだろう?
じつにけしからん思いである。
が、わたしは宗教に振り回されてきた。
重い、深い、弾圧とはまた全く違う、、、ある意味、信仰の強制。
今、話題の宗教二世とはまた別もの。
全く意味合いが異なるのではあるが、微妙に共通点もある。

それは嫁ぎ先の宗教に染まらなければならないこと。
嫁ぎ先の先祖を敬わなければならない抽濕機 推介
見たことも聞いたこともない、実質的アカの他人の皆皆様に、延々と祈りを捧げなければならない。
それは、「女偏(へん)に家」と書いて「嫁」と読む。
字の如く。そのまんま。
宗教行事は絶対的力を持つ。
それを執り行うことは、スゴイことなのだ。
伊勢神宮平安神宮宮司さんのようなもの?(ちょっと違うか、明らかに違うな、、、)